新聞奨学生の死 〜あいつ死んだよ〜

学校へは数週間に一度程度通う(といっても体調の無理をおして行くも内容が理解できずしばらくして帰るような状態)形だった。

数ヶ月ぶりに会った新聞奨学生の級友がいた。
元気だった。なんでも、二年目からは奨学生を辞めて通えるようになったらしい。今現在は夕刊業務の無いような販売店に異動になり、かなり楽な状態らしい。
家族も無理を聞いてくれたようだ。「よかったね」と言い、最近の事を聞いた。

連絡のとれない級友も何人もいた。既に奨学生を辞めて実家に帰ってしまったやつもいるらしい。級友の中でも仲の良かった吉見という女の子がいた。あいつはどうしたんだろうと思い聞いてみた。


「あいつは・・・ 死んだんだってさ」


衝撃だった。新聞奨学生の生活に耐え切れず、自ら命を絶ったらしい。
どこかのビルから飛び降りたという。


声が出なかった。ただただ、休憩室のフロアの隅で、体を折り曲げて声無き声をあげるしかなかった。

新聞奨学生とかなんだよもうわけわかんねぇ 死ねよもう」
とにかくこんな感じの言葉を口走って、きちがいのようにのたうちまわったのを覚えている。



もう本当に学校とか就職とか将来とか、何もかもがどうにもよくなってきていた。


だが新聞奨学生は 辞めたくてもやめられない。辞めるには即金で借りた学費を用意せねばならんのだ。それが用意できない以上は通いもしない学校の学費を納入して、やりたくもない新聞配達業務を年次終了まで続けなければならない。




奴隷は逃げられない。

10年前 新聞奨学生の死 〜迷宮の中〜

肉体と精神のキャパシティは破綻寸前だった。
口からは「いやだいやだ・・・」と自動的に繰り返され、目からは涙ばかり出てくる。

ああ自分はだまされたんだ と気付き始めていた。

級友と冗談で「俺らは新聞奨学生っていうか新聞奴隷だな」
とよく話した。その通りなんだと思えてきた。

級友には奨学生でない、普通の学生もいた。
彼らには住む部屋もあり、寝る時間もあり、遊ぶ時間もあった。
もちろん勉強する時間も、課題を制作するための調査時間も、
PCもインターネットも(当時インターネット回線を契約するには権利を買うなど初期導入費用が高かった)。おおよそ学業に必要なものは全て揃っていた。

学生なんてものは怠惰なもので、二日こないで一日通学する程度でもなんとかなったりする。羨ましくてしょうがなかった。

こちらが就職活動をする暇もなく忙殺されている間に彼らはカラオケ朝オールに行き、遊びに行き、課外授業に参加していた。中には着実にスキルを身に着けるものもいた。
就職も決めていた。


世の中は不公平なんだな。
何度もつぶやいた。

ぼろぼろの精神と意識の中でただただ 涙が止まらなかった。


抜けられない深い迷宮へと入りこんでいた。


そして絶望に値する事件が起こる。

10年前 新聞奨学生の死 〜はじまった日々〜

頑張れば、そのうち仕事にも慣れてくるかもしれない。
そう思い自分を慰め、奮い立たせた。
頑張って一年、二年頑張って卒業するんだ。そして就職すれば、全てが報われる。

そう思いながら仕事に学業に勤しんだ。

とにかく眠い。
睡眠時間がはっきり言って足りないのだ。

毎日足元がふらふら、頭はボーとしていた。授業を受けても眠いし、理解できなかった。
それでも、なんとかして学校には行き続けた。
級友に同じく新聞奨学生が多く在籍していたが、早くも姿を見なくなったものが現れ始めた。

授業を受け続けた。しかし、眠い。何度も聞いているが、ついに一言も理解できないままその日が終わった事もあった。課題を出されたが、アパートの部屋内で製作をやろうとしても、何も浮かばないようになっていった。

睡眠不足は加速度的に威力を増していき、電車で始発と終点を何度も往復する事が続いた。当然、夕刊には遅刻である。
朝も睡眠が足りずに寝坊する事があった。集金の指定時間が深夜に及び、
1〜2時間程度しか眠れないようなときなどは高確率で寝坊してしまった。
アパートのドアを叩かれ起こされる。ドアを叩かれる音で驚きすぎて心臓の動機が止まらなくなった。今でもドアを叩かれる音が大嫌いだ。


夏を過ぎる頃、学校に行っても内容が理解できなくなっていた。
寝るのも起きるのも苦痛でしかない日々。
学校に行く事はもはや肉体的にも精神的にも不能となってきていた。

その頃携帯電話を始めて契約した。級友から「ずっと休んでいるが大丈夫か?」と心配する電話がかかってきた。

本当は色んなことを勉強したいし、級友と会いたい。
磨いたスキルで就職するはずなんだ自分は。


そう思いながらも、自らの精神の混乱は止まなかった。

体は常に痛いし、常に眠かった。涙も止まらなかった。


「俺はいつからこうなった?!」
「どうしてこうなった?」
「ナニが間違っていた?」

いくつもの問いがココロの中を駆け巡った。
やり場のない悲しさと苦しさと怒りが常に心を捉えて話さなかった。

いつになったらこの苦しみから解放されるのだろう。

10年前 新聞奨学生の死 〜実際の仕事の条件が・・・〜

だんだんと仕事の条件がわかってきた。わかるにつれて、これまで奨学会で説明されていた内容とは程遠い事がわかりはじめた。

「どういう事なんだ・・・」

動揺・不安はとまらなかった。

・紹介されていた仕事内容 
 ↓
 実際の仕事内容 

という形で表記する。


■仕事
新聞配達、集金、付帯業務(チラシ作り)

配達、集金、付帯業務(チラシ作り、日曜店番、神奈川旬報の配達、宣伝紙配達、排紙回収)


■営業
自由。

強制業務。月二回は勤務時間外に拡張業務を行う事を義務化。

■住環境
1Rアパート。UB・フローリングのきれいな部屋。

先の日記で説明済。築30年のアパートにまだ住めるとはな。(余談だが2009年現在も現存)

■給与
月13万円。(食事付きの場合は3万円天引)
賞与 年二回 各6万円

食事つきの為月10万円
賞与 年二回 6万円(という名目だが・・・次回以降で詳しく解説)

■タイムスケジュール
 ・4時起床。30分後配達店へ、
  ↓
 2時起床・2時半には配達店へ。 遠方地にチラシを抱えて運ぶ。

 ・5時配達。7時頃販売所帰着。
 ↓
 4時半配達。 6時半に販売所帰着。
 チラシ作り。

 7時30朝食。

 8時シャワーを浴びて学校へ。
 ↓
 8時シャワーはありません。そのまま学校へ。

・9時授業開始
12時授業終わり。自習・課外授業等
15時帰着準備
16時販売所帰着。夕刊配達。

14時半には    販  売  所   に  帰  着
(課外授業・自習不可能)

・15時半 夕刊配達。
 18時夕刊終了・集金。
 19時販売所帰着。夕食。
 20時 アパート着。自習等。
 22時 就寝

・(6時間は睡眠できる予定)
 


(4 時 間 ち ょ っ と し か 寝 れ ま せ ん)

■休日
週二日 休刊日。

実際には日曜日は朝刊あり。休刊日は夕刊あり。
週一指定日の長夕休日はあったが、その日に学校の授業を集中する事になっているが、
学校側で授業の指定が無い日も多々(これは学校側の問題だが)



話が違い過ぎる。




もう既に学校に行く準備を整え、学費納入等の手続きが終わった後に発覚するのだ。


もう後に戻れない。


辞め た くて も        辞 め られ         ない。


脳が灼かれる思いだった。

10年前 新聞奨学生の死 〜配属が決まる!〜

説明も一通り終わり、いよいよ配属店が決まる運びとなった。学校に行く為には余り遠い店舗では学業に支障が出るので、近い店を希望。自分達は奨学生の中でも一番早い組なので、一番先取りができると聞いているので、最低でも都内の販売店に入れるはず。そう思っていた。

だが、現地で聞いた言葉は「君達は三陣目だ」との事。
愕然とした。つまり、条件のよさそうな販売店は既に入る学生が決まっているという。
鹿児島の全体説明会での理事長や主任の言葉はなんだったのだろう。

何かが狂い始めていた。

決まった販売所は新横浜・港北エリアだった。少しばかり遠いが、東横線で一本だからと言われ、納得せざるを得なかった。住む場所は販売店の二階で、風呂がついている。いい場所だと言われた。最寄駅はT駅。支店なので、 本店最寄のK駅に集まれと。

「納得がいかなければ配属先を変えてもいいです、喜んでお受けします!」と奨学会全体説明では言われたが、同時に個人面談では「この時期に空いてる販売所なんかないよ。どこでもいいから適当に入りなさい」などとも言われていた。

少々遠いが、同じ学部に通う学生もいる。ここらで折れるしかないかと思い、横浜の店に行く事を決めた。
奨学会を出る頃、同じ販売店に配属される同僚がいる事に気付く。名前を国田と言った。
愛媛出身で、目黒の音楽専門学校でギター科に通うらしい。

「これからどうなるんだろうな」と不安を語りながらK駅まで向かう。
K駅へと着き、徒歩で販売店まで。
売店に着き、門を叩く。ほどなくして誰か出てくる。金髪や長髪の若いお兄さんがガラス戸の向こうに見えた。どうやらこれから先輩方と呼ぶ連中らしかった。
年配の女性が現れて先輩に促す。
「所長がこれから面談するから上がって」

と言う事で所長と面談する事となった。
奨学会事務所でもちらりと会った所長は自分達よりも早く販売所に帰ってきていた。

所長と面談を終え、そのまま夕食へ。

周りには知らない人ばかり。そんな中食べるカレーのあのうまいともまずいとも言えない不思議な味は忘れられない。その時に先輩1人と何か話したのを覚えている。三義とか言ったっけ。

食事後、金髪の先輩に案内されてアパートへ。
ここでパンフレットの内容を振り返ってみよう。

■奨学生パンフレット
フローリング 1Rアパート。UB。

■実際の住む部屋
木造5畳。風呂無しトイレ共用。床が響く仕様。ラジカセをつけると隣に響く仕様。押入れに穴が開いていて隣部屋が見える仕様。窓から東横線のホームが見える仕様。電車でアパート全体が終電まで振動する素敵仕様。


ある程度は覚悟していたが、ここまでひどいとは思わなかったよママン。

途中から気付いた事がある。
配属店は学校に近い方のT支店になるはずだったのに、気がついたら遠い方のK店配属にいつの間にかすり替わっていた。T支店なら風呂もあったし、部屋も6畳+@の今よりはいい部屋だったのに。一体どうしたというのだろう。

ゆっくりと運命の歯車が狂ってきていた。

10年前 新聞奨学生の死 〜どこの店に配属になる?〜

奨学会本部での説明会がはじまった。
労働時間、給与、休日。パンフレット通りの説明。

■仕事
新聞配達、集金、付帯業務(チラシ作り)

■営業

自由。

契約をとれたらその分月拡張料がつく。

■住環境
1Rアパート。UB・フローリングのきれいな部屋。

■給与
月13万円。(食事付きの場合は3万円天引)
賞与 年二回 各6万円

■パンフレット・説明会によるタイムスケジュール
 4時起床。30分後配達店へ、
 5時配達。
 7時には販売所に帰ってきて朝食。
 8時シャワーを浴びて学校へ。
 9時授業開始
12時授業終わり。自習・課外授業等
15時帰着準備
16時販売所帰着。夕刊配達。
18時夕刊終了・集金。
19時販売所帰着。夕食。
20時 アパート着。自習等。
22時 就寝
(6時間は睡眠できる予定)


仕事も、学校も充分できそうな時間割じゃないかと思った。
これなら学校も仕事もできる。そう思っていた。


実際に販売店に配属されるまでは。

10年前 新聞奨学生の死 〜そして上京〜 2

月日は過ぎて、3月。
ついに新聞奨学生として上京する事となった。
飛行機のチケットを貰い、家で見送りをしてもらい、母方のじいさんに空港まで送ってもらった。
あの頃弟はまだ高校生。妹は中学3年生。父方のばあさんはぼける前だったっけ。

「それじゃ、行ってくるからね」とじいさんに告げて飛行機に乗った。
自分はこの時点で二回ほど東京に既に行っていたので、もう慣れたものだった。

一回目は親戚の忌引についていった時。二回目は某学校の説明会に推薦状をもらって交通費タダで行った際。その時生まれて初めて東京という街に触れた。田舎には無い建物・文化・人々の群れ――カオスに魅せられた。
自分の父親は集団就職で東京に20年近く住んでいた事もあり、その影響もあったのだろう。いつか自分も東京に行きたいと思っていたのだと思う。

飛行機は程なくして羽田空港についた。当時は国内線ターミナルビルはひとつしかなかったので、滑走路からはバスで空港で向かうものだった。(余談だが、現在でもたまにバスで滑走路まで行く便があるようだ)

空港では行き先を言付かった新聞奨学生と引率でついてきた父母が数人いた。奨学生だけで集合し、モノレールへと向かう(当時は多分京急は無かったよな)。

モノレールから見えるビル郡。同乗の乗客の標準語での会話。
「ああ、東京に来た!」と思った。

新橋に着く。当時は汐留も無い。日本テレビ新社屋もまだなく荒涼とした空き地が広がっているだけ(また余談。数ヵ月後、電波少年の企画予定地として特番会場として利用されていた。時々新橋に行くとその様が遠めに見えたもんだ)。JRへと乗り換え、新大久保まで。

ある程度東京の電車に乗りなれた自分とは違って、殆どの人間は4両以上の電車に乗ったことが無い連中ばかり。乗り換えではぐれる連中も少なくなかった。当時は携帯を持っているのは少なかったし、大丈夫だったのだろうか。

新大久保へと着いた。その時点では多くの全国からの奨学生が多数集まっており、奨学会の人間や斡旋先の新聞販売店所長の姿も見えた。

少しばかり歩き、辿りついたのは 新聞奨学会。
いよいよ斡旋先販売店が決まるのだ。