最終章 新聞奨学生からの脱出

新聞奨学生を辞めると 即金で借りた金額を返金しないといけない。
ここからは両親にまかせる事にした。
即金で返金はできない。

だが分割で返す事はできる。

交渉に次ぐ交渉の末、なんとか分割で返せるような形にもっていけた。


この流れの中で、帰郷する事になった。
なったというか、もう販売所の仕事の引継ぎは終わったので、自主的に帰郷した。
帰りの飛行機、鹿児島空港に着き、バスに乗る。
バスから地元のラジオ番組が聞こえてきて、山と川ばかりの風景を見て

涙が止まらなかった。
何故こんな事になったのだろう。
日も暮れて街の明かりさえない暗い山道、コンビニの無い山の中。黒電話。
昨日まで東京で、あの華やいだ世界にいた自分が

今は携帯の電波も届かない実家にいる。
寂しくて、寂寥感で胸がいっぱいだった。

今でも実家に帰ると同じような思いに囚われて苦しくなる。


同級生からの紹介の仕事は精密機器を取り扱う某K企業の工場勤務の仕事だった。残業も多くきつい仕事だといわれている。
面接には普通に受かった。正直に奨学生借金がある事を話した事がある意味功を奏したのかもしれない。
仕事はきつかったが、新聞奨学生の人権侵害・殺人的な仕事に比べれば天と地の差があるくらい楽だった。
ある種の地獄を見たからこそ、この程度はなんでもないということなのだろう。

連休があって、たっぷり眠れる事が嬉しかった。体を休める事ができるのがこんなに嬉しいことだとは思わなかった。

必死の仕事の甲斐もあって、120万あった借金は6ヶ月で全て返せた。
毎月20万はぶっこんだことになるんだろうな。

期間限定社員で働いたのは一年。

余った金で、車の免許をとり、当時の先端機器だったBSデジタルチューナーも親に買ってあげた。

そして失業保険が切れるまでは引きこもった。



こうして、約3年に渡る新聞奨学生との因縁はここに終結を迎えることとなったのである。