幻覚好きの人類へ

古来より人間は詩を詠み、音楽を奏で、人形を作り、舞いを踊り、現実にいない存在を作り続けてきた。見たものはそれを見て感動し、涙を流し、歓喜の表情を浮かべた。

人々は物語を欲している。
現実に存在する人間までもが人々が欲する物語の中に取り込まれる。
世界的大スターの死、凄惨な事件、一国を預かる宰相ですら、劇場の登場人物となるのだ。
mixiはさしずめ、様々な物語の開演を知らせるシネコンの案内場ってところだろうね。

歴史学者は文献の端端から歴史上の人物の物語を想像する。考古学者は遺跡や化石から古代の情景を想像する。しかし、その幻想を眼球の網膜を通して知覚する事は不可能なのだ。
だからこそ、物語が必要とされた。物語を通してかつて実在したとされる人物を幻視するために。

物語を見る事で得られる感覚は多種にわたるが最終的に快感へと帰結する。
言ってしまえば幻覚を見て快楽を得ようとする行為なのだ。

最近自転車に良く乗るようになってきて思う。余り考えなくても、何かに夢中になれる自分がいる。物語も幻覚も、昔ほど必要じゃなくなってきた。
パーソナリティと密接に絡み合い、混ざり合い、目の回る思いをしながら過ごしてきたのが10代。物語はかかせない物質で、常に幻覚を追い求めていたハードコア・ジャンキー。

幻想や幻覚が枯渇しはじめ、一定の形状へと収束しだした20代後半。
10代と比べると、双方のスタンスが固まりはじめてきた。

それがどんな形へと成長するのかはまだわからない。
ただ、今はそれをこんな文章という形で遺しておこうと思うのみ。

もし、自分が将来何か表現する事があるとして、その時に必要になるかもしれない。
アイスクリームの味を決定的にするバニラ・エッセンスのように。

幻覚好きの人類へ。
これからも理想を追い求めてくれ。
現実にあえぐ人々の心にいくばくかの安らぎを。