10年前 新聞奨学生の死 〜そして上京〜 2

月日は過ぎて、3月。
ついに新聞奨学生として上京する事となった。
飛行機のチケットを貰い、家で見送りをしてもらい、母方のじいさんに空港まで送ってもらった。
あの頃弟はまだ高校生。妹は中学3年生。父方のばあさんはぼける前だったっけ。

「それじゃ、行ってくるからね」とじいさんに告げて飛行機に乗った。
自分はこの時点で二回ほど東京に既に行っていたので、もう慣れたものだった。

一回目は親戚の忌引についていった時。二回目は某学校の説明会に推薦状をもらって交通費タダで行った際。その時生まれて初めて東京という街に触れた。田舎には無い建物・文化・人々の群れ――カオスに魅せられた。
自分の父親は集団就職で東京に20年近く住んでいた事もあり、その影響もあったのだろう。いつか自分も東京に行きたいと思っていたのだと思う。

飛行機は程なくして羽田空港についた。当時は国内線ターミナルビルはひとつしかなかったので、滑走路からはバスで空港で向かうものだった。(余談だが、現在でもたまにバスで滑走路まで行く便があるようだ)

空港では行き先を言付かった新聞奨学生と引率でついてきた父母が数人いた。奨学生だけで集合し、モノレールへと向かう(当時は多分京急は無かったよな)。

モノレールから見えるビル郡。同乗の乗客の標準語での会話。
「ああ、東京に来た!」と思った。

新橋に着く。当時は汐留も無い。日本テレビ新社屋もまだなく荒涼とした空き地が広がっているだけ(また余談。数ヵ月後、電波少年の企画予定地として特番会場として利用されていた。時々新橋に行くとその様が遠めに見えたもんだ)。JRへと乗り換え、新大久保まで。

ある程度東京の電車に乗りなれた自分とは違って、殆どの人間は4両以上の電車に乗ったことが無い連中ばかり。乗り換えではぐれる連中も少なくなかった。当時は携帯を持っているのは少なかったし、大丈夫だったのだろうか。

新大久保へと着いた。その時点では多くの全国からの奨学生が多数集まっており、奨学会の人間や斡旋先の新聞販売店所長の姿も見えた。

少しばかり歩き、辿りついたのは 新聞奨学会。
いよいよ斡旋先販売店が決まるのだ。